未来の臨床試験 - 第二話 臨床試験がなくなる日

2024年5月12日(2019年8月2日初出)

「さくら、これからの世の中はデータサイエンスだ!」

当時参加していた治験の結果が予想以上に良く、治験もそろそろ終わりという頃、受験のための勉強をしていた私に向かってロックが唐突に言った。

「あんたどこでそんな言葉覚えてきたの?」
「さっきアクセスした10年位前の雑誌に、21世紀に最もセクシーな職業はデータサイエンちストだと書いてあった」

そんな会話をしてからしばらくして、治験の終了と共にロックも回収され、私たちは離れ離れになった。高校を卒業した私は関西にある大学の薬学部に進学し、そこで何故かバイオインフォマティックスにハマり、ときどきロックに言われた言葉を思い出したのを覚えている。

「治験補助ロボットだったのに将来予測までしてたなんて。すごいぞ、ロック」

その後、私は大学時代のバイト先のつてを頼り、あるバイオベンチャーに就職した。自分が参加した治験で受けた恩を、今度は自分が新しい薬を開発することで誰かに返したかったということもあるし、この会社が計算科学に相当な投資をしているということも動機の一つになった。そして何よりも社長を中心とした研究チームが開発した新しい技術に興味があった。

3年ほど前に開発されたこの技術を使えば、コンピュータによって作られた仮想空間上に、一人ひとりの人間のゲノムと同じ遺伝子配列を持ったヴァーチャルツインズと呼ばれる人体のコピーを再現することが可能になる。このヴァーチャルツインズを使うことで、特定の遺伝子の発現やそれにより合成されるタンパク質の構造、特性、体内組織・器官への影響を計算することが可能になり、薬物が体内に入った際の代謝や血中濃度の推移を遺伝子の型ごとにシミュレーションする、といった様々な条件を設定した計算を行うことが可能になった。臨床試験で被験者に薬物を投与して毒性や代謝、疾患に対する効果を調べるといったことが、理論上は全てコンピュータ上で実施可能になったのである。

実は有機化学合成や探索研究の分野においては、このような情報技術による革命は30年以上も前に既に起こっている。コンピュータ上で化合物をデザインし、10以上の合成経路や条件を計算したり、化合物がどのような構造を持った時に、どういった特性や活性が現れるか、どの程度の毒性があるか等、コンピュータで計算するのが当たり前の状況になっている。論文に試験管内での反応を表すin vitro、生体内での反応を表すin vivoに加え、コンピュータ上で計算した結果を表すin silicoという言葉が出てきたのもこの頃である。

人体の中の化学変化は様々な条件が重なって発生するため、これまでは正確に計算することが極めて困難だったが、ヴァーチャルツインズ技術の開発により、臨床開発もようやくこういった状況に追い付いてきた。

薬を発売するためには、健常人や実際の患者を使った各種の試験を行い、10余年の月日を経て承認を受け、ようやく発売という長い長いプロセスが必要だったものが、対象患者のヴァーチャルツインズを使って計算したデータを必要数集めて解析し、iPS細胞を使った検証を行うことで、人体を対象にした臨床試験を行わずとも承認を受けることが可能になった。これにより、今まで10年以上かかっていた作業が、現在では約半年で完了する。今後iPS細胞がより効率的にかつ大量に作製できるようになれば、データ解析は理論上3か月程度で完了するような状況になってきている。しかも人体を使わないため、臨床試験中に副作用が発生するといった安全性の問題からも完全に解放されたのである。

勿論、発売後の副作用については慎重にトラッキングや管理をすることがこれまで以上に重要になったが、こちらも投与対象となる患者のヴァーチャルツインズに対して、予め薬物を投与するシミュレーションを実施し、必要であれば患者の細胞から作成したiPS細胞での検証を行うことにより、薬剤の効果は勿論のこと、発生しうる副作用についても予め予測することが可能になったのである。まさに個別化医療の実現である。

「さくらさん、次、人種によって代謝に差が出るか3000例ずつ使って解析してみて」

今私の目の前で、臨床開発が人間のデータを集めて集計することで成立していたという常識がまさに覆されようとしていた。机の上のフォトフレームの中で、ロックがこちらを向いて少し微笑んだように見えた。

「ロック、私も少しはセクシーなデータサイエンティストに近づけたかな?」